「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。」論語 先進
「季路、鬼神に事(つか)えんことを問う。子いわく、いまだ人につかうることあたわず、焉(いずく)んぞよく鬼につかえん。あえて死を問う。いわく、いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。」 吉川幸次郎『論語』角川書店,2020では、下のように解説している。いくつか興味深いことがある。人が死ぬと「鬼」になる、という。白川静氏の『常用字解』にも、そのような説明がある。そうすると、例えば桃太郎が対峙した鬼は、元々人だったのだろうか? また、「生」は「生まれること」を指すものとしている。少し意外である。 季路とはすなわち子路であり、実名でいえば仲由、例の果敢な弟子である。この弟子の行動が果敢であったことはすぐ次の条に、「由やの若きは、其の死を得ざるが若く然り」、たたみの上で死ねそうにないと、見えるとおりであるが、果敢さは行動ばかりでなく、思考においてもそうであり、そのゆえに、鬼神、死、という不可知の世界、少なくとも知りやすからぬ世界についての問答を、もったのであろう。そう見れば一そう味わいが増す。「季路、鬼神に事えん事を問う」。厳密に定義すれば、 「鬼」とは人間が死んでなる神が「鬼」であり、天の神が「神」である 。そうして地の神が「祇」であるが、ここの「鬼神」は、漠然と神神を意味すること、さきの雍也第六の「鬼神を敬して之れを遠ざく」(上冊233頁)と同じであろう。またさればこそ問いの言葉は「鬼神に事う」であるのに対し、答えはただ「鬼に事う」なのであろう。「事う」とは奉仕の意。 「孔子はこたえた、「いまだ人に事うる能わず、焉んぞ能く鬼に事えん」。「焉」の字は句のはじめに来るときは「安」と同じであり、いずくんぞ、なんぞ、どうして、の意である。したがって言葉全体の意味は、 人間に対する奉仕さえまだ充分にできないのに、どうして鬼神への奉仕が可能であるか。鬼神への奉仕を考えるよりも前に、人間への奉仕をもっと大切なこととして考えよ、と答えたのである。思いあわすべきは、さきに引いた雍也第六の「鬼神を敬して之れを遠ざく」であって、孔子はたとい無神論者ではないにしても、人間を第一とし、神への意識を第二とする態度にあったことを示す条として、有名である。 「敢えて死を問う」、子路が再び問うたのである。まえの問答で、孔子は子路の思索が一足とびに超自然、超感...