『未来をひらく歴史―日本・中国・韓国=共同編集 東アジア3国の近現代史』に書かれた関東大震災と朝鮮人・中国人の虐殺

1923年に起きた関東大震災の震源と発生状況については、この記事が詳しい。それによると、

関東大震災では11時58分32秒に発生したM7.9の本震から3分後の12時01分にM7.2、5分後の12時03分にM7.3という巨大な揺れが三度発生した「三つ子地震」であることが最新の研究で判明した。つまり、本震の震央が神奈川県西部、続いて東京湾北部、山梨県東部が三つの地震の震源となった。
被害は東京(当時の人口:都市部250万人、郡部100万人)神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨に及ぶ広大な地域で震度6以上の揺れが発生。震度7の地域は、本震の震央とされる神奈川県小田原~鎌倉にかけての相模平野一帯から横浜、東京、房総半島南部にと広範囲に広がり、20cm以上の強い揺れが1分以上続いたとも伝えられる。震源とされる断層は、神奈川県西部から小田原、鎌倉、横須賀、横浜、千葉県館山を含む長さ約130km、幅70kmに至り、この断層が平均2.1mのずれを生じたという。

8分間に、巨大地震が3回起きたということだ。このようなことが再び起きるかもしれないし、起きないかもしれない。地震学者は、いつどこで大地震が起きても不思議ではないという。例えばこの記事では、「南海トラフ巨大地震。これは2035年からプラスマイナス5年、つまり2030〜2040年の間に必ず起きると言っていい」という。

地震は起きるものとしても、関東大震災の時のような人災は、防ぐことができるだろうか?

 2006年に出版された、『未来をひらく歴史―日本・中国・韓国=共同編集 東アジア3国の近現代史』に書かれた、関東大震災と朝鮮人・中国人の虐殺についての記述である。長い引用となるが、『日本人とユダヤ人』での、関東大震災についての記述と合わせて読むと、朝鮮や中国の人および日本に住む人にとって、この事件はどういう意味を持つのかがわかると思う。

1923年9月1日、日本の関東地方南部でマグニチュード7.9の大地震が起き、木造の住宅だけでなく、鉄筋コンクリートのビルディングも破壊されました。
住宅が密集する東京・横浜では、大きな火災が発生し、被災者は 1960万人、死者9万人、負傷者10万人、行方不明者4万人を出しました。
これを関東大震災といいます。
このとき、多くの朝鮮人と中国人が殺害される事件が起こりました。
どうしてこんなことが起こったのでしょうか。
震災・火災以外の多くの犠牲者とは地蔵による混乱のなかで、警察などにより「朝鮮人が暴動を起こした」などのデマが流され、翌9月2日、政府は東京・神奈川に戒厳令をしきました。
こうした中で、軍隊、警察や住民がつくった自警団によって多くの朝鮮人が虐殺されました。
「在日本関東地方罹災朝鮮同胞感問班」の調査によれば、その数は約6,000人。
そのほか、数百人の中国人も殺害されました。
また、大杉栄など社会主義者や労働組合の指導者も、彼らの考え方を危険視する軍人や警察によって殺されました。
地方出身者で方言を使う日本人のなかにも朝鮮人と間違われて殺された人がいました。
語頭に濁音の発音がこない朝鮮語の特徴から、10円50銭をチューエンコジュセエンと発音するものは朝鮮人だと見なされたためです。
この朝鮮人・中国人虐殺について、大正デモクラシーの思想家、吉野作造は 「世界の舞台に顔向けできないほどの大恥辱」と述べています。

なぜ、朝鮮人・中国人が殺されたのか

第一次世界大戦中は好泉気にわいた日本経済も戦後まもなく恐慌に陥り、社会運動・労働運動が激しくなりました。
また植民地では独立運動が盛んになりました。
戒厳令を出すよう進言したのは内務大臣水野錬太郎と警視総監赤池濃といわれます。
二人は、三・ー運動直後の朝鮮で、それぞれ総督府の政務総監、警務局長を務めた経験があります。
彼らは震災で混乱に陥っている民衆が社会運動家たちと結びつくことを恐れ、社会主義者や朝鮮人・中国人への民衆のもつ偏見や差別意識を利用し、朝鮮人・中国人をスケープゴートにすることによって人々の不安をすりかえようとしたものと考えられます。

■奇跡的に生き延びた使昌範さんの証言
日赤病院からは、1年6カ月ぶりに退院しました。
朝鮮に帰ってみると、 私の故郷だけでも震災時に12名も虐殺された事が判り、そのうち私の親戚だけでも3名も殺されました。
(中略)あれだけ惨酷な虐殺にあっても、国がないために抗議一つできませんでした。「ドキュメント関東大震災」より)

世界はこの事実をどう受け止めたか
大震災に対してはアメリカ、フランス、中国など41カ国から救援物資や義援金が送られてきましたが、虐殺事件を知ると、世界の世論は日本に対して批判の目を向けました。
帝国ホテルに避難していた各国の外交官たちは日本政府に 厳重な抗議を申し入れました。
朝鮮は日本の植民地であったために、朝鮮人虐殺は国内問題として封じ込められましたが、中国の場合は国際問題となりました。
中国政府は中国人虐殺の真相を解明するために北京から日本へ調査団を派遣し、被害者の家族への補償などを要求しましたが、日本政府はこれに応えませんでした。

1970年代後半から、市民団体が関東各地で朝鮮人・中国人虐殺の調査や遺骨の発掘、追悼などをすすめてきました。
しかし事件後80年を経過した今日でも、 朝鮮人・中国人虐殺事件について日本政府による公的な測査、謝罪と補償はまだなされていません。

 

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