「識ることは難しい。だがひとたび識れば、行動を起こすことはたやすい」 

To understand is hard. Once one understands, action is easy. —Sun Yat-Sen

Pendleton, Don "Continental Contract (The Executioner Book 5)" . Open Road Media. 『 マフィアへの挑戦4』

孫文の著作の言葉を少しアメリカ人が向きにアレンジした表現です。

この孫文の言葉は、『 孫文革命文集 』岩波文庫、2011年より、「孫文学説 行なうは易く知るは難し (抄)」の章に載っています。

非常に屈折した文章です。挫折した革命家なので、こういう悲憤に満ちた文章を書かざるを得なかったのでしょう。彼はいまだに台湾では国父と言われているそうです。

この文書の中で、彼は、「知ること艱きにあらず、行なうことこれ艱し」(「書経」説命中に基づく)という説がおかしいと、言います。

この思想の誤りとは、何であろう。それは、「知ること艱きにあらず、行なうことこれ艱し」(「書経」説命中に基づく)という説である。
この説は傅説(般の宰相)の武丁(殷の高宗)に対する言葉に始まり、それから数千年来、中国の人心に深く刻み込まれて、もはや打ち破りえなくなっている。
それゆえ私の建設計画は、いずれもこの説により打ち消されてしまったのだ。
ああ、この説は私の生涯で最大の敵であり、その威力は満清の一万倍にもなる。
満消の威力は我々の体を殺しうるにすぎず、我々の志を奪うことはできなかった。
ところが、この敵の威力は我々の志を奪いうるだけでなく、万民の心を惑わすことができるのだ。
だから、満消の時代に私が革命を主張すると、日に日に効果を上げ、たゆまず前進することができたのに、民国が成立した日から私が建設を主張すると、逆に全くなす術がなく、一敗地にまみれてしまったのだ。
私の三十年来絶えず至誠を捧げてきた心が、ほとんどそのために跡形もなく消え去りそうになり、幾度失敗しようとも挫けることのなかった志が、ほとんどそのために幻滅して無気力になるところであったのは、これによる。恐るべし、この敵。憎むべし、この敵。

このペースで彼は書いていきます。その熱意は凄いと感心します。

アジテーションの見本です。では、何が正しいと孫文は言うのか?

「孟子」尽心 [上]篇に、「行なっていながら理解せず、慣れていながら熟知せず、生涯それに従っていても、その道理を認識せぬ者が多い」という。
これはまさに、心性を指して言ったものである。
このことから、「行なうは易く知るは難し」とは実に宇宙の真理であり、事業に当てはめても心性に当てはめても、そうでないものはないことがわかる。

 「行なうは易く知るは難し」は宇宙の真理だというのです。その後も延々と論理を展開していきます。なかなか興味深いのですが、当時、これを読んで奮い立つ人がいたかどうか。

『マフィアへの挑戦4』で引用されたように、欧米人に知られるほど、印象深いフレーズであるとは思いますが、今の中国の人はこの言葉を知っているのでしょうか。 

そういえば孔子も「五十にして天命を知る」と言いました。知ることは難しく、時間がかかるのでしょう。


孫文学説――行なうは易く知るは難し (抄)
 

解題 

従来の革命運動の中で表明してきた、断片的な哲学思想や政治思想を集大成し、独自の革命哲学として理論化・体系化した著作。
一九一八年の夏から秋にかけて執筆され、胡漢民・朱執信・戴季陶等の校閲を経て、一九一九年六月五日に上海の華強印普局から出版されたもので、
同年六月十日発行の再版本より翻訳した。
ただし「孫文学説』は当初、この「行なうは易く知るは難し」が第一巻、そして第二巻が「三民主義」、第三巻が「五権憲法」となる予定だったが、
実際には第一巻しか発行されていない。その後、これを第一部分「心理建設」として、
第二部分「物質 建設」(「中国の国際開発(実薬計画)」)、第三部分「社会建設」(「会議通則」上海、中華督局、
一九一七年四月、会議の進行方法の解説)とともに、『建国方略』として出版される
(初版は 不詳、再版は一九二二年の上海の民智書局)。

ここで孫文は人類史の発展を、いまだ認識(「知」)の及んでいない未来・世界を、実践行」)を通じて既知のものへと漸進的に変えていくことにより、
実践を事前に計画・統御しうる程度が増大する過程と捉え、中国の停滞と西洋の発展との差異はこの認識と実践の正常な往還運動の有無に起因すると説く。

そして、人類進化の通時的三段階を人間集団の共時的三類型に対応させ、
「先知先覚者」たる党首(孫文)の認識、 すなわち革命思想(三民主義・五権憲法)を、
「後知後覚者」である党員が共有し、その達成を目指す実践としての革命運動への参加を、
「不知不覚者」としての非党員にも促すという、指導・動員の方式が提起されている。

このような主張が、中国古典から国際情勢、はては自然科学に至るまで、雑駁とも言える広範な知識を援用しつつ、時に強引ですらある論法により展開されるこの著作は、孫文の名が冠せられたことが示す通り、彼の革命哲学を集約的に表している。
中華民国を自己の思想の具現化に他ならぬと信じる孫文が、自身を排除した南北両政権の軍事・政治指導者に対して、唯一の資源たる革命思想を根拠に優位性を主張し、革命運動を再開する意思を示したのである。
そして同年十月十日に孫文は、中華革命党に替わって中国国民党を発足させることになる。

自序
文は国事に奔走すること三十年余り、そのために畢生の学問と能力を注ぎ、絶えず至誠を捧げ、幾度失敗しようとも挫けず、
満清の威力にも屈することなく、苦難の道程にも臆することはなかった。
わが志の向かうところ、困難を恐れず勇敢に前進し、敗れるほどに奮い立ち、
ますます励むことによって、思潮を盛り上げ、時流を創り出すことができた。
ついには全国の人心の趣向や、仁者と志士の支持により、専制を打倒して、共和を樹立することができた。

本来ならば、その後で引き続き革命党が奉ずる三民主義と五権憲法、
そして「革命方略』の規定する様々な建設構想(「軍政府宣言」解題参照])を実行しえて、
必ずや時流に乗じ中国を一躍富強の段階に登らせ、人民を安楽の境遇に至らせることができるはずだった。
ところが革命が成功するや、ただちに党員は異議を唱え、私の主張するところは理想が高すぎ、中国の用には適せぬと言ったのだ。
衆人の陰口は金属をも溶かすという譬えの通り、(この主張が)一世を風靡して、
同志たちですらもことごとく惑わされてしまったのである。
こうして私が民国の(臨時大)総統だった時の主張は、むしろ革命指導者(中国同盟会総理)だった時ほどには、効果的に実行されなかったのだ。
これが革命の建設が成功せず、そのため破壊の後に国事がますます悪化してしまった理由である。

満洲の専制一つを除去したら、無数の強盗の専制が生じてきて、その害毒は以前よりもいっそう甚だしくなっている。
そして人民は、ますます生活の拠り所を失ってしまったのである。
わが党の革命の初心を振り返ってみると、本来は国家や種族を救うことを志し、
人民を災難から逃れさせ、安楽な境遇に至らせることを求めていた。
今は逆に (人民を)いっそうひどい災難に陥れ、革命の初志と正反対になっているのは、
もとより 私の人徳が薄くて同志を教化できず、私の能力が足りなくて大衆を統制できず、このようなことになってしまったのである。
しかし、わが党の人々が革命宗旨・革命方略に対して、信仰が足りず実行に努めなかったことも原因で、そうなったのは功名と利益を手に入れて、心変わりしたことによるだけでなく、実は思想が誤っていたために、志が鈍ってしまった者が多いのだ。

この思想の誤りとは、何であろう。それは、「知ること艱きにあらず、行なうことこれ艱し」(「書経」説命中に基づく)という説である。
この説は傅説(般の宰相)の武丁(殷の高宗)に対する言葉に始まり、それから数千年来、中国の人心に深く刻み込まれて、もはや打ち破りえなくなっている。
それゆえ私の建設計画は、いずれもこの説により打ち消されてしまったのだ。
ああ、この説は私の生涯で最大の敵であり、その威力は満清の一万倍にもなる。
満消の威力は我々の体を殺しうるにすぎず、我々の志を奪うことはできなかった。
ところが、この敵の威力は我々の志を奪いうるだけでなく、万民の心を惑わすことができるのだ。
だから、満消の時代に私が革命を主張すると、日に日に効果を上げ、
たゆまず前進することができたのに、民国が成立した日から私が建設を主張すると、
逆に全くなす術がなく、一敗地にまみれてしまったのだ。
私の三十年来絶えず至誠を捧げてきた心が、ほとんどそのために跡形もなく消え去りそうになり、幾度失敗しようとも挫けることのなかった志が、ほとんどそのために幻滅して無気力になるところであったのは、
これによる。恐るべし、この敵。憎むべし、この敵。

兵法に、「心を攻めるを 上策となす」と言う(『三国志」「蜀志」巻九の玄松之注に引用する「製陽記)。
わが党の建国計画は、この心理的打撃を受けたのだ。

国は人の集まりであり、人は心の器であり、国事は一つの人間集団の心理現象である。
それゆえ政治の盛衰は、人心が奮起するか否かにかかっている。
私の心ができると信じれば、山を移し海を埋めるように困難な事も、ついには成し遂げる日が来る。
私の心が できないと信じれば、掌を返し枝を折るように容易な事も、成果を収める時は来ない。
心の作用は、それほど大きいのだ。
心とは、万事の本源である。
満消の滅亡とは、この心が成功したということだ。
民国の建設とは、この心が失敗したということだ。
革命党 の心理は、(辛亥革命が)成功した当初、「知ること難きにあらず、行なうことこれ難し」 という説に囚われ、私の政策を空論と見なして、建設の資任を放棄してしまったのである。
そうすると以後、建設の責任は革命党だけが担いうるものではない。
民国が成立してからは、建設の資任を国民が共に負うべきなのだが、七年にわたり建設事業が進展するのを見ることはなく、国事は日に日に紛糾して、人民は日増しに苦痛を覚えている。
夜半にそれを思うと、悲哀の念に堪えない。
民国の建設事業は、実に一刻も先延ばしにできないことなのだ。
国民よ、国民よ。いったい何を思っているのか。できないのか。しないのか。
知らないのか。私は、それができないのではなく、しないのであること、またしないのではなく、知らないのであることを知っている。
もし知ることができれば、建設事業は掌を返し枝を折るようなことにすぎない。
当時を振り返れば、私が親身に革命党員に説いて聞かせたものの、
絵空事や理想・空言だと思われてしまったことが、今になって見ると、
世界の潮流の需要に適い、また民国を建設する資材ともなるのだ。
そこで、これを書物として著し、「建国方略」と名づけて、国民の規範としよう。

それでもなお、躊躇して慎重にならざるをえないのは、今日の国民の社会心理が、
ちょうど七年前の党員の集団心理と同様で、この「知ること艱きにあらず、行なうことこれ艱し」という大敵が、相変わらず邪魔立てをして、私の計画を理想・空言と見て拒んでしまうことが、懸念されるからにほかならない。
そこで、まず学説を立てて、この心理的大敵を打ち破り、
国民の思想を迷妄から抜け出させて、私の建国方略が再び国民により、
理想・空言だと見なされることがないよう願うものである。

そうすれば万人が心を一つにして、迅速に行動を起こし発展を遂げ、わが五千年の文明的で優秀な民族が、世界の潮流に適応して、政治は最も公明で人民は最も安楽な、人民の人民による人民の ための国家を、建設することができよう。
そして、その成功は革命の破壊事業と比べても、きっとより迅速かつ容易であるだろう。
 民国七年[一九一八年)十二月三十日 上海にて 孫文自序

第五章知行総論
総じて言えば、この十の証明からして、「行なうは易く知るは難し」ということは疑いようがなく、「知ること艱きにあらず、行なうことこれ艱し」という古い説や、王陽明の「知行合一」の格言は、全て根本から覆された。
あるいは、「「行なうは易く知るは難し」ということの十の証明は、事業については確かに異論の余地がないのだが、心性における知と行は、必ずしもそうではなかろうと言う者がいるかもしれない。

そこで私は孟子の説で、これを証明しよう。
「孟子」尽心 [上]篇に、「行なっていながら理解せず、慣れていながら熟知せず、生涯それに従っていても、その道理を認識せぬ者が多い」という。
これはまさに、心性を指して言ったものである。
このことから、「行なうは易く知るは難し」とは実に宇宙の真理であり、事業に当てはめても心性に当てはめても、そうでないものはないことがわかる。


陽明の「知行合一」の説は、善を行なうよう人に促すものである。
その趣旨を推し測るに、やはり彼も
「知ること艱きにあらず、行なうことこれ艱し」と考えていたのだろう。
ただし、人が向上するには必ず実行に努めねばならず、
困難があっても恐れることなく、知った以上は行なうべきなのであるから、
人に難事を行なうよう促すことになる。

ついには「知行合一」の説を唱えて、
「知ったら即座に行ない、知っても行なわなければ、知らないことになる」と説いた
(「伝習録」巻上に基づく]。
人に善を行なうよう促す心は、実に真剣なものだ。
しかしながら、この説は真理と背馳しており、困難を容易とし容易を困難として、
人に難事を行なうよう促すのは、実に人間性と相反している。
これでは、先に述べた「行なっていながら理解せず、慣れていながら熟知せず、
生涯それに従っていても、その道理を認識せぬ者」が、この説に惑わされてしまい、
とたんに困難を恐れる心が生じて、あえて行なうことができなくなってしまう。

この陽明の説は、学徒たちにより語り伝えられ一世を風靡したが、
結局のところ社会や人心に無益なものであった。

またあるいは、「日本の〔明治〕維新の事業は、完全に陽明の学説のおかげで、
東邦(日本)の人士は皆そう信じており、それゆえ陽明を極めて尊崇している」と、
言う者がいるかもしれない。
そうではなく、日本は維新以前まだ封建時代で、風俗は古代からあまり隔たっておらず、
まだ活力が残っており、にわかに外敵の圧迫に遭って、
幕府がなす術がなくなると、有志の士が義憤に駆られて、
尊王攘夷の説を唱え国民を鼓舞したのだ。
これは義和団が扶清滅洋を唱えたのと、一致した行動である。
異なっているのは、時勢に運不運があったことにすぎない。
攘夷が上手く行かないと、「師夷(外国人に倣う)に 転じたので、
維新の事業は完全に外国人に倣ったおかげだ。
このように日本の維新は全て、行ないながらその道理を知らぬことにより成ったもので、
陽明の「知行合一」の説とは実に全く関係がないのである。

もし日本の維新が「知行合一」の説のおかげであるなら、
中国がますます衰弱しているのを救うこともできるはずなのに、
なぜ中国の学徒たちも同じく陽明を尊崇していながら、結果は異なってしまったのか。
それは、中国の習俗が古代から遠く離れ、すっかり活力を失い、
顧慮の念や困難を恐れる心が、新興文明の人々よりも甚だしいからだ。

それゆえ日本の維新は、知ることを求めず行なったのに 中国の変法は先に知らなければ行なおうとせず、
知ってからは困難を恐れて行なうことができなかったのだが、
これは行なうのが知るよりも難しいという説に、惑わされたからであろう。
維新や変法は国家の大事であり、前もって知りえぬ事が多く、
行なって成し遂げた後に、ようやく知りうるのだ。

それゆえ日本の維新は、多くが冒険精神に頼って、先に知ることを求めずに行ない、
それが成功してから、維新と名づけたにすぎない。
中国の変法は、先に知ることを求めてから行なおうとして、
いつまでも知ることができないので、行なうことも永速にできなかったのだ。

このことから見るに、陽明の「知行合一」の説は、
活力に溢れた日本を抑えることができなかっただけで、
何の助けにもなってはいないのだが、
すっかり活力を失った中国にこれを当てはめれば、害をもたらすに十分であった。
「知行合一」の説は、科学の発達した社会において、
一つの時代や一つの事業(の全体)について言うならば、
はなはだ 適切なものだが、陽明が一人の者に知行を兼ね備えさせようとするのは、
ことに今日においては通用しない。

科学が発達すればするほど、一人の者の知と行は隔たり、
知っている者が必ずしも自分では行なわず、
行なう者が必ずしも自分では知らないだけでなく、
それぞれ知と行の中でも、経済学の専門分薬の理論を当てはめて、
部分的に知っていたり部分的に行なったりする者も現れる。
それゆえ陽明の「知行合一」の説は、実践的科学に合わないのである。

私が煩を厭わず紙幅を費やして長々と、「行なうは易く知るは難し」という道理を
明らかにしてきたのは、これが中国を救うには必ず通らねばならぬ道だと考えるからだ。
中国が近代においてますます衰弱し、今にも滅亡しようとしているのは、
実に「知ること艱きにあらず、行なうことこれ艱し」という説に、
惑わされたためなのである。
この説は学徒の心理に深く入り込み、学徒から大衆へと伝わって、
困難を容易とし容易を困難とした。
ついには活力を失い困難を恐れる中国が、恐れるべきでないことをも恐れ、
恐れるべきことを恐れなくなった。
こうして容易なことは避けて遠ざかり、困難なことは求めて近づいていく。
最初は知ることを求めてから行なおうとして、知ることができないと困難を嘆息し、
全てを捨て去ってしまう。
たまには不撓不屈の人士がいて、畢生の力を費やして知ることを求めるのだが、
やはり行なうことは難しいと考えて、知ってもあえて行なおうとはしない。
こうして知らねば自ずと行なおうとせず、知ってもあえて行なわないので、
天下の事業は何一つできないのだ。
これこそ中国が、ますます衰弱してきた原因である。
本来、困難を恐れるのは害のないことで、困難を恐れる心があるからこそ、
人は手間を省いて効果を挙げようとする。これは経済の原理であり、人間生活の利便でもある。    
ただ難易を顛倒したために、求めるか避けるかの判断がつかななれば、それは有害だ。

広く中国有史以来の文明発達の経緯を見てみると、
これは誰の目にも明らかである。
 唐・吹(伝説上の帝王の美と姫)や三代(夏・殷・周)の頃、
初めて未開から文明へと進み、周代になると文物は完成に至り、
当時の政治・制度・道徳・法令・学術・工芸は、ほとんど近代の欧米と肩を並べるほどで、
その進歩の速度はまったく秦・漢以後の及ぶところではなかった。

中国が未開から開化した時代より現在に至るまでは、二つの時期に分けることができ、
周代以前は進歩の時代で、周代以後は退歩の時代である。
人類の進化というのは、「従来の事業を受け継いでより発展させ、
元々の状態から程度を増していき」(蘇統「文選序」 に基づく)、
後から来た者が先の者を追い越していくはずだ。
しかし中国の歴史が、この法則とちょうど反対なのは、いったいなぜだろう。
それはまさに、「知ること艱きにあらず、行なうことこれ艱し」という説が
もたらしたのだ。
三代以前、まだ人類は智恵が発達せず、知らず知らずのうちに行なって、
道理はわからなかったものの、月日が経つうちに効果が表れ、
ついに周の治世に至ったのだが、これが知らずに行なう時期というものである。

周代以後、人類は次第に覚醒して、知識は日増しに多くなり、
こうして徐々に知ってから行なおうとする時期に入った。
この時期になると、「知ること艱きにあらず、行なうことこれ艱し」という説が、
だんだんと人々の心に入り込んだため、遠い祖先が得た知識は、
全て危険を冒し猛然と進んで得られたもので、
最初は知らずに行なっており、 次に行なってから知るようになり、
最後に知ってから行なうようになったことを、中国人はほとんど忘れてしまった。
古人が知識を得たのは、最初のうち百年や千年もの時間を費やして行ない、
それからようやく知ることができたり、あるいは千人や万人もの人々が苦心して努力し、
試行錯誤を重ねた後に知るようになったりしたのである。
だが、後の者が前の者から受け継ぐと、知らないうちに手に入れたように思ってしまう。
それゆえ、ともすると「知るは易く行なうは難し」と考えてしまうのだが、
これは考察が足りないだけである。
この知ってから行なおうとする時代にあって、「知るは易く行なうは難し」という説に
惑わされ、もはや行なうことによって知ることを求め、
知識を得てさらに行動に進もうとはしなくなってしまった。
これが三代以後、中国文化に退歩はあっても進歩がない理由である。

「現代人の目で見て、世界の人類進化を考えるならば、
三つの時期に分けるべきである。
第一は未開から文明へ進み、知らずに行なう時期であり、
第二は文明からさらに文明へ進み、行ってから知る時期であり、第三は科学が発達した後の知ってから行なう時期である。

欧米は幸いにも、「知るは易く行なうは難し」という説が文明の障害となることがなく、
それゆえ未開から文明へ進み、文明から科学へ進むことができた。
その近代における進化は、知らなくても行ない、知ればさらに喜んで行ない、
それゆえ前進して止むことがなく、今日の飛躍的な進歩が得られた。

元朝の時代にイタリア人のマルコ・ポーロ(Marco Polo、二五四一一三三四)という者が、
来訪して中国に仕え、退いた後に帰国して書物を著したが、
中国は当時において、社会の文明、商工業の発達、芸術の進歩が、
ヨーロッパ人から見ても素晴らしいと思うほどで、
これほど文明の進歩した国は世界になかろうと述べている。
これは中国の人士が三十年前に、張徳舞の「四述奇」という香物を読み、
記されているヨーロッパ文明の様子を、荒唐無稽だと感じたのと同じである。
これにより、ヨーロッパの六百年前の文物は、当時の中国にはるかに及ばなかったことが
わかる。
ところが、彼らの最近一、二百年来の進歩が猛烈な速度であること、
我々が夢想すらできないものだ。
日本は維新から五十年来、その社会の文明化、学術の発達、商工薬の進歩は、
彼らの数千年来の進化を超えるだけでなく、ヨーロッパと比べてもさらに速く、
これは全て科学によるものである。
科学が発達して、ようやく人類は知識を求める方法を持ちうるようになり、
そこで初めて知ってから行なうという、第三の時期に進化することができた。
科学とは体系的な学問であり、筋道を立てた学問である。
およそ真の優れた知識は、 必ず科学から得られるものだ。
科学以外の知識といわれるものは、多くが真の知識ではない。
たとえば中国で聞き慣れた、天は丸く地は四角いとか、
天は動き地は動かぬというのは、数千年来の考え方や見方が、
自然と習慣になってしまい、それが誤りだと知る者がいなくなってしまったのだが、
科学的に真実を検討してみれば、完全な間違いである。
また我々の習慣で、養子を「娯蛉」(背虫)と呼ぶのは、
「蝶感」[トックリバチ)が娯玲 を変身させるという意味から来ているのだろう。
古籍の伝えるところによると、娘蛉は桑に付く虫で、媒敵は蜂なのだが、
蜂には子がなく、楽に付く虫を捕まえ、覆いかぶさって倒し、隠して養い、
「私に似ろ、私に似ろ」と祈ると、しばらくして蜂に変身する という
「詩経」「小雅」小宛、「爾雅」釈虫、楊雄「法言」学行等]。
我々が肉眼で少し見るだけなら、やはりきっと同様の判断を下すだろう。
しかし、科学の体系によって考察するならば、
生物の変化にこのような突然のものはない。
法則によって考察するならば、
媒画が「娛蛉を捕まえ、覆いかぶさって倒し、隠して養う」という事例を幾つか集め、
日数ごとに分けて、同時に観察するのだ。
また、一つの事例についても、日ごとに調査して、その状態変化を観察する。
すると、媒嵐が娯蛉を捕まえ、覆いかぶさって倒すというのは正しいが、
隠して養うというのは誤りだとわかる。
覆いかぶさって倒した後、媒 豚は娘蛉の体内に卵を産みつけ、
煉獄の幼虫が成長すると、娘弁の身を餌にするのだ。
隠して養うというのは、娛蛉を自分の巣に】隠して、
それにより媒脳の幼虫を養うのである。
つまり、媒献は娯鈴を自分の幼虫に変身させるのではなく、
媒玲の肉を自分の幼虫の餌にするだけなのだ。
この発見から、我々はある医学の優れた技術を、
人類より先に媒蔵が行なっていたことを証明できるのだが、それは麻酔薬の使用である。
媒画は娯蛉を泥の穴の中に隠す際、 その針で毒を炊蛉の脳髄に注射して麻痺させ、
昏睡していながら死なず、生きていなが ら動けないようにする。
すぐ娛蛉が死んでしまえば、その身は腐って餌とするには都合が悪い。
生きていて動けるならば、きっと泥の穴を崩して出て行くので、
それによりきっと媒蔵の卵も壊れて、成長するまで保存されるのは難しかろう。
それゆえ媒脳は必要 に迫られて、麻酔術を発明し娛蛉に用いるのだ。
麻酔術は、西洋の医者が病人の治療に使うようになって百年に満たないが、
なんと蝶獄は幾年・幾世代これを用いているかわからないのである。
このことから見るに、およそ必要に迫られれば、
人類が状況に対応して創造や発明を行ないうるだけでなく、
生物にもこのような天分があるのだ。
行なうのは容易で知るのは困難だというのは、人類がそうであるだけでなく、
生物もまたそうなのである。
ただし、人類には最終的に覚醒する希望があるのに対して、
生物には永遠 に知りる時は来ない。
わが国民が「知ること艱きにあらず」と言う場合、その知っていることというのは、
たいてい天は丸く地は四角いとか、天は動き地は動かないとか、
 〔媒感が〕娛蛉を幼虫にするといった類にすぎないのだ。

人類社会の進化は、時間的に考えれば三つの時期に分かれ、先に述べた通り、
知らずに行なう時期、行なってから知る時期、知ってから行なう時期である。
だが、人間について言うと三系統あり、
第一は先知先覚者で創造・発明し、第二は後知後覚者で模倣・ 推進し、
第三は不知不覚者で尽力・達成する。
この三系統の人々が、相互に貢献し合うならば、
禹が九本の河川を治め〔禹は夏王朝の始祖とされる伝説上の帝王で、
九本の河川を治 めたという)、
秦の始皇帝が長城を築くことも可能になる。
ところが後世の人々は、「知ること艱きにあらず」という説に惑わされて、
先知先覚者の発明があっても、後知後覚者は常に知ることは容易だと考えて無視し、
これを模倣・推進しないどころか、行なうのが困難な理想だと見なすので、
すると不知不覺者は尽力・達成しようがなくなってしまった。
だから秦・漢以後の事業には、禹が九本の河川を治め、秦の始皇帝が長城を築いたのと、
比肩しうるものが一つもないのだ。
これを嘆かずにいられようか。

今や革命が緒に就き、わが国に数千年来なかった局面を切り開こうとしており、
また科学が発達する時代に遭遇しているので、知れば必ず行なうことができ、
知れば行なうのがより容易になる。
わが四億の優秀な文明民族が、四百二十七万平方マイルの土地を持ち
(これと比べれば、日本が以前に持っていた土地は十四万平方マイル余りにすぎず、
今持っている土地も二十六万平方マイルにすぎない)、
世界随一の広大な資源としているのは、まさに有為の人が有為の地を持ち、
有為の時に巡り会ったということだ。
もしわが国の後知後覚者が、「知ること艱きにあらず、行なうことこれ艱し」という
迷信を、 毅然として打ち破り、奮起して革命の三民主義・五権憲法を模倣・推進することが
できれば、世界で最も文明が進歩した中華民国を建設するのは、
実に掌を返すように容易なのである。
私の言葉を絵空事だと言うのであれば、アメリカの革命と日本の維新により、
これを証明しよう。
アメリカの革命は、三百万人が大西洋沿岸の十三州の地に拠って、
イギリスと苦闘すること八年にして、ようやくイギリスの束縛を脱し、
独立することができたのだ。
その土地は未開の荒漠たる大陸で、
内には赤色蛮人(原語は「紅番」、アメリカ先住民を指す)の抵抗があり、
外には強敵の侵略があって、粗末な車に乗りボロの服を着て、
経営に着手した。
まだ当時は科学があまり発達しておらず、その境遇といい時機といい、
決して今日の我々のように優れてはいない。
その建国の資源も使える道具も、やはり決して今日の我々のようには豊かでなかった。
その人数は、今日の我々の百分の一に満たない。
だが、この三百万の人々は皆、冒険の精神と遠大な壮志を具え、菌起して尽力し、
果敢に猛進した。それゆえ、一七七六年七月四日に独立を宣言してから、
現在の民国八年〔一 九一九年〕まで、百四十三年しか経ていないのだが、
既にアメリカは世界で最も富強な国となっている。
日本は維新の当初、人口が我々の十分の一に及ばず、その土地はわが四川一省の大きさにも
及ばず、当時の知識・学問は今日の我々よりはるかに劣っていた。
しかし、翻然と覚醒することができ、鎖国が得策ではないと知って、
ただちに攘夷を「師夷」に改め、各国の人材を招聘し、欧米の優れた制度を採用して、
改革に努めた。 アメリカは強盛の地位に至るのに百年余りを要したが、
日本は僅かに五十年、つまり三分の一の時間にすぎない。
このことから推測するに、中国が富強の地位に至るには、十年以内で足りるだろう。

あるいはまだ信じないのであれば、シャム[タイ]の維新を見てほしい。
従来シャムは 中国の藩属の一つで、土地はほぼ四川一省に等しく、
人口は八百万にすぎず、その中に 華僑の子孫が約二、三百万おり、
その他は全て半ば開化した蛮族であった。
その人民の知識について言えば、とうてい中国に及ばず、
全国の商工業はことごとく華僑の手に握られていた。
その国勢を論じるなら、イギリスとフランスという両強国の領土
(イギリス領ビルマ・マラヤとフランス領インドシナ)の間に挟まれ、
領土を日増しに侵食されて、二 十年前には滅亡寸前という、緊迫した状況であった。
その王室や側近は、にわかに強国となるべく奮起し、
日本の維新に倣って、外国の人材を採用し、西洋の方法を採用したので、
これまで十年余りを経ずして、全国の様相は一新され、
文化は日の出の勢いで発展している。
今やなんと東アジアにおいて、完全な独立国となっており、
国際的な地位は中国を凌ぐものである。
今日、東アジアの独立国は日本とシャムのみで、
中国はまだ 完全な独立国とは称しえず、半独立国だとしか言えない。
わが国内にはまだ他国の租界があって、他国が統治権を持っており、
我々の税関は外国人の手に握られているが、
日本やシャムはこの束縛を完全に脱している。
このことから、シャムの維新は日本よりもなお速く、シャムにできるのであれば、
なおのこと中国にできぬわけはないとわかる。
その手段は、ただ行なうことだけなのだ。
学問をする者であれば、ここに至って行なうのは容易で知るのは困難だということが、
明確に理解できただろう。
それゆえ天下の事柄は、知りえぬことのみ憂えればよく、
もし科学の法則によって真の知識を得られれば、
これを行なう上で決して困難はなく、
これは既に十数回も繰り返し証明してきたところで、
疑いを容れないことである。
それでは行なう手段とは、どのようなものであろう。

それは全て後知後覚者が、自分をも他人をも惑わさぬことにのみかかっている。
先に述べた通り、文明の進化は三系統の人々により成し遂げられる。
第一は先知先覚者、すなわち発明家であり、第二は後知後覚者、すなわち宣伝家であり、
第三は不知不覺者、すなわち実行家である。
このことから見るに、中国は実行家がいないことは憂うるにおよばず、きわめて多数いる。
わが党の人士は、「何某は理想家で、何某は実行家だ」などと言うことがある。
二、三人が国家を改革する実行家となりうると考えるのは、実に甚だしい誤謬だ。

現在、外国人が上海で建設している巨大な工場、繁華な市街、屹立する高校を見れば、
その実行家は全て中国の労働者であり、外国人は理想家・企画者たるにすぎず、
その建設事業を自ら行なったわけではない。
それゆえ、一国の経営・建設で得がたいのは、実行家ではなく理想家・企画者なのだ。
中国の後知後覚者は、みな実行を重んじて理想を軽んじる。
さながら化学を修めるのに、寒村の豆腐屋を崇拝して、
ベルトレ(Claude-Louis Berthollet、一七四九一一八二三、フ ランスの化学者】や
パスツール(Louis Pasteur、一八二三ー九五、フランスの化学者)といった大学者を
無視するようなものだ。

あるいは医学を修めるのに、蜂の媒威を崇拝して、麻酔薬を発明した名医を無視するような
ものだ。
豆腐屋は生物・化学の実行家で、媒感は麻酔薬の実行家なのだが、
このような道理があろうか。
現在の後知後覚者は、全てこの悪習に毒されており、
だから世論に宣伝して文明を提唱することができず、
むしろ是非を混乱させ、進化を阻害しているのだ。
それゆえ革命以来、建設事業が進展することができないのである。
そこで私は、これを徹底的に解明することにより、
後知後覚者が従来の迷妄に気づき、翻然として考えを改めて、
二度ともっともらしい謬説で世を惑わし、
わが多数の実行家を阻害することがないように望むのであり、
そうすれば建設の前途には大いに希望があろう。

 

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