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「ほんもののバットマンは人を殺したりはしない。 なんとね、今の私のことばを聞いたかい? ”ほんもののバットマン”とはね。」

 「好きというより、不承不承称賛してたと言った方がいいかもしれないが。彼はいわば都会の庶民のヒーローだよ。バットマンみたいな」 「バットマンは人は殺さない」 「漫画ではね。映画では殺してる。でも、あれはハリウッドが悪いんだよ。 彼らは何もかも台無しにしてしまうのさ。 そう、 ほんもののバットマンは人を殺したりはしない。 なんとね、今の私のことばを聞いたかい? ”ほんもののバットマン”とはね。 でも、バットマンを漫画で読んで育った世代としては、そんな風にも言いたくなる 」 「ああ、わかるよ」 ローレンス・ブロック『処刑宣告』 田口俊樹訳 二見書房 “Let's say I had a grudging admiration for him.  He was a kind of urban folk hero, wasn't he? Almost like Batman.” “Batman never killed anybody.” “Not in the comic books. He does in the movies, but Hollywood’ll fuck up anything, won’t they?  No, the real Batman never killed anybody.  Listen to me, will you? ‘The real Batman.’  But when you grew up on the comic book that’s how it seems .” “I know.” Block, Lawrence. "Even the Wicked" (Matthew Scudder Book 13)  アニメ映画の『ニンジャバットマン』でもバットマンは人を殺さない。 この映画の中で、バットマンは、悪役のジョーカーから、なれなれしく、「なあ、バッツ」と呼ばれる始末である。悪友のように見えるが、ジョーカーは本気でバットマンを殺そうとして常に失敗する。 不思議な関係である。でも、だから物語は続くのだ。 fuck upは、「台無しにする」の意味。 shitの用法 もそうだったが、アメリカ人の英語表現は不思議である。

「人間というものは、心配すべきことを心配できたためしがないからだ。」

 「ことばがすぐに出てこないと、すぐアルツハイマーじゃないかと思ってしまう。 でも、知ってるかね、それはとてつもない時間の浪費だってことを」 「心配することが?」 「そうだ。なぜと言って、 人間というものは、心配すべきことを心配できたためしがないからだ 。」  ローレンス・ブロック『処刑宣告』 田口俊樹訳 二見書房 "I can't think of the word I want and I start to worry about early-onset Alzheimer's.  You know something?  It's a big fucking waste of time.” "Worrying?” "You said it. You never worry about the right thing. " Block, Lawrence. "Even the Wicked" (Matthew Scudder Book 13) 英語において、youはしばしば、「人は」の意味で使われる。 寺田寅彦の言った、「ものを怖がらなさ過ぎたり、怖がり過ぎたりするのはやさしいが、正当に怖がることはなかなか難しい。」をブロック氏は知っていたのかどうか。    

「パソコンがあれば、やつらがやったことができるってことさ。」ローレンス・ブロック『処刑宣告』

 パソコンがあれば、やつらがやったことができるってことさ。さらに合法的な仕事もね。あんたが図書館で丸一日かかって探し出す資料が、たったの15分で見つけられる」   “We had us a computer,” he said, “I could get so I could do the same shit they did. Plus I could do all the legit stuff, digging out trash in fifteen minutes that you spend a whole day finding in the library.” Block, Lawrence "Even the Wicked (Matthew Scudder Book 13)"  shit は、使い方の難しい言葉だが、ここでは、「(あまり面白くない)こと」くらいの意味で使われている。リーダーズ英和辞典には、get one's shit together で、仕事などをうまくやる、ちゃんとする、というイディオムとして載っている。   https://ludwig.guru/s/do+the+same+shit    

「彼もまた年寄り同士助け合うことを知ってる男だったというわけだ。われわれ年寄りにはみんなそういうところがあってね」ローレンス・ブロック 『処刑宣告』

 “He was just one old guy looking out for the interests of another,” I said. “We old guys are like that.” Block, Lawrence "Even the Wicked (Matthew Scudder Book 13)" look out for は、気を配る の意味。  さて、まだ老人ではないつもりだが、どうなるんだろうか。 最近、物忘れはひどくなった。部屋の明かりを消し忘れたり、風呂から出た後に、肩に湿布を貼っていたことに気がついたりする。

「現実の世界から仮象の国への飛翔のなかに単なる行き当たりばったりの刺激を求めて読書すること」ジョン・デューイ

 学校と社会 (岩波文庫) ジョン・デューイ 1899年から一部引用。  今であれば、この文中の「読書」を「ネットサーフィン」とか「SNS」に置き換えたらいいだろう。 この本を読むことも、屈辱的なのだろうか?子どもと大人は違うのだろうか? 回りくどい表現が多く、読み通すのに苦労した。引用のために使えるのは、下の2か所である。 ****************************************************************** 子どもに最大限にうったえ、子どもの生活にとって完全な意味を持つということは、教科がたんなる外部的教科としてではなく、それが社会生活ととりむすぶ関連という見地から提示されるときにはじめて可能となるということが、忘れられていたのである。 子どものより日常的な・直接的な・個人的な経験が、それの解決・満足・遂行のためには書物の力を借りることが必要となるような諸諸の問題・動機・興味を提供するようにするという要求。 もしそうでなければ、子どもはなんら知識を渇きもとめることなしに(中略)書物に接することになる。 しかしてその結果は(中略)屈辱的に書物ばかりに頼っているので、思考と探求の活力を弱め、また、いじけさせてしまって、空想、情緒的耽溺、および現実の世界から仮象の国への飛翔のなかに単なる行き当たりばったりの刺激を求めて読書すること。

「アンナ・ルイーズはこのような父の友人たちを<ひきがえる>(トード)と呼んだ。彼女自身はもちろんこの言葉を、<おべっか使い>(トーディ)の意味で用いていたのだ。」

彼がわたしたちの結婚にあえて反対しなかったのは、わたしという男に、彼の周辺に群がり、機嫌取りに汲々としている、いわゆる友人たちにたいする以上の軽侮感を持たなかっただけのことだ。 アンナ・ルイーズはこのような父の友人たちを<ひきがえる>(トード)と呼んだ。 それは彼女の英語知識の不正確による語尾のとり違いで、彼女自身はもちろんこの言葉を、<おべっか使い>(トーディ)の意味で用いていたのだ。私もやがては彼女に倣って、彼らを呼ぶのにこの名称を用いるようになった。   グレアム ・グリーン 『ジュネーヴのドクター・フィッシャーあるいは爆弾パーティ』早川書房、1981 He didn't even bother to oppose our marriage, since he had no greater contempt for me than for his so-called friends who would always flock to him at a nod. Anna-Luise called them 'Toads', her English not being perfect. She meant,of course,toadies,but I soon adopted the title which she had given them.  Graham Greene "Doctor Fischer of Geneva or The bomb party" (1980)  "toady"の複数形が"toadies"。 英語原文に対して、和訳が長いが、これは仕方ないだろう。  今でも時々、こう呼ばれても仕方のない連中が現れることがある。  

『葬送のフリーレン』第97話「観測」または『東洋文化の根抵にあるもの』鈴木大拙

鈴木大拙は、仏教学者で、宗派は臨済宗、すなわち禅宗の人である。 私は禅がわからない。 彼が1958年12月22日の『毎日新聞』に書いた「東洋文化の根抵にあるもの」(岩波文庫 新編『東洋的な見方』 所収)の全文は、以下の通りだが、これもよくわからない。  比較のために、『葬送のフリーレン』第97話「観測」より、大魔族ソリテールのセリフを引用する。 「過程がわからなくても、原理がわからなくても、対処することはできる。 人類は、浮力の原理を解明する前から船を作り、風が怒る原理も分からないまま帆で船を操り、波が起こる原理も理解しないまま堤防を築き上げた。 人類は古来より未知を未知のまま扱う能力を持っている。 そしてそれは、最も原始的で論理的な行為の積み重ねによって産み出される。 ”観測”だよ。」 これはわかる。洋の東西で船大工は存在するし、堤防建設者も存在する。天候や地震や星を観察し記録する人もいる。方法は違っても、似たようなことをしている。 しかし、鈴木大拙は、『東洋文化の根抵にあるもの』において、「東洋民族の間では、分割的知性、したがって、それから流出し、派生するすべての長所・短所が、見られぬ。 知性が、欧米文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。」などという。 このような理解できない説明で東と西を分けようとする。そのあたりが禅の所以なのかもしれない。 ただし、「相手になるものの勢力を分割して、その間に闘争を起こさしめ、それで弱まるところを打って、屈服させるのである。」という部分はわかる。ロシアがまさしくそれをウクライナに対して行ってきているからである。